やまと(倭)は国のまほろばBlog

美しい国日本を守るため歴史、経済、政治面から社会についての思想的考察を行います

漂流する日本:SNSでしか繋がれない社会はどこへ向かうのか?

先日座間で起きた自殺ほう助を装った残虐な事件のあと、Twitterを規制することを検討すると政府が言ったり、TwitterのCEOが来日するなど様々な動きがありました。

 そんな中で個人的に引っかかったのは、Yahooニュースだったかたと思いますが、自殺等本当に悩んでいる人は、SNSなどを制限されると誰にも悩みを打ち明けられない。だから制限は反対だ。といった内容のものでした。

これはある意味現代日本の社会の姿を如実に表している言葉かもしれません。

学校の子供は成績と言う尺度で全てが決まり、偏差値を上げる、又優秀な大学に入学することだけが正しいとされ、勉強が苦手な子供の居場所がない。又教師も既定の授業をこなすだけに四苦八苦しいじめに合っていることも分からないし、相談できるような対象でもない。

父親も家に帰っても、収入を持ってくるだけの役割になってしまっているので家族とは密接なコミュニケーションもなく、父親が子供の本当の悩みや、考え方を話す場所もない。母親も同様。

既に随分以前からこういった社会に日本はなってしまっている。

こういった状況は何故起きているのか?又個人と社会はどうあるべきなのか?

まずこういった状況を生み出してきた価値観、イデオロギーはデジタル的、かつ数値での評価のみが正しい。とされてきたことでしょう。

学校では、成績がいいだけがその人間を判断する尺度となっていますが、手先の器用な子供はそれを生かす、運動が得意な子供はそれを使った職業につくなど、数値だけを持って判断することなく、多様性=デジタルではない社会を取り戻す努力をしてゆかなければならないのではないでしょうか?会社の中でも業績はもちろん大切。でもそれだけをもって人の優劣を決めるべきではないし、そういった制度を模索しなければならない。まずは全て数値で判断するということを疑うことを始めなければならない。こういったことを認識してゆく必要があります。

次に個人と社会はどうあるべきか。

多様化した価値観を認めるという事は、人と人が互いに助け合い、譲り合うということに繋がります。互助互譲の考え方です。そもそも人間は当たり前ですが一人では生きられない。それが現代は個人がエゴ丸出しでも生きてゆける錯覚を信じている。

チェーン店のコーヒーショップに入ると、結構お年寄りが座っていますし、サイゼリア含めた安価なレストランには一人で食事をしている方が大勢おられます。会社のOBなどに聞いても、家にいると奥さんから毎日いないでと言われるからとか本当に寂しい話が聞かれることが多い。

いつから日本は個人が個人の要求だけを述べ、繋がらない社会になってしまったのでしょうか?又人と人が繋がるような場所も無くなってしまったのでしょうか?

SNSでしか自分の悩みを吐露するということに異をとなえるものではありませんが、人と人との生身の付き合いというものが今まさに必要で、復活すべき繋がりなのではないかと思います。

その為に我々自身は何を考え、すべきなのか?

既に述べましたが数値だけをもって全てを判断してゆくようなイデオロギーを自覚し、それ以外の人間の価値を捜し、認めてゆくことが必要。

又人と人が触れ合うことができるような、昔の町内会的なコミュニティの復活が必要なのだと思います。

先日、ばっちゃんというTVが放映され、飛行に走った子供たちの面倒を見ているお年寄りの紹介していましたが、どんなに飛行に走った子供でもばっちゃんの言う事は聞くし、大人として尊敬している。そんな番組でした。昔は当たり前のような光景でしたが本当にこういった社会を再構築してゆく事が必要でしょう。

今日本で起きているような事は、国の力をボディブローのように弱めてゆきます。個々人が纏まりもなく勝手な、経済利益だけを求めるだけなら、当たり前の事です。この国を守り、今後もきちんとした生活をしてゆく為にも正に個々人が考え、行動してゆく時期なのだと思います。

 

ばっちゃん ?子どもたちの居場所。広島のマザー・テレサ? (扶桑社BOOKS)

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