やまと(倭)は国のまほろばBlog

美しい国日本を守るため歴史、経済、政治面から社会についての思想的考察を行います

『英語化は愚民化』施光恒著を読む

本書は政治学者である著者が、国の形を決める政策の観点から日本社会を英語化する政策に対し痛烈に批判し、今後のあり方を提言したものです。

 1.日本を覆う「英語化」政策とグローバル化について

 現在日本では英語化の政策が進んでいる。2013年に発表された「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」により小学校5年生から英語を正式教科とする。又2014年から「スーパーグローバル大学創生支援」プロジェクトが始動し、大学の世界ランキングアップと我が国の社会のグローバル化を牽引する大学に補助金をつけるというもので英語で授業を行うことが重要視されている。

これらは日本語が「国語」の地位を失う大きな危険を孕んでいると筆者は警鐘を鳴らします。

そもそも歴史を振り返ってみると言語的には普遍から土着への移行がヨーロッパに近代社会を生み出してきた。

中世ヨーロッパでは普遍語はラテン語で、特権的階級のみがそれを理解し、文化、芸術、科学、医学などあらゆる分野で知識はラテン語で記され、聖書もラテン語で記されたものだけだった。その意味では中世ヨーロッパはラテン語を解さぬものには一切の知的な情報が閉ざれた暗黒の世界だった。

それを改革したのがルターの宗教改革で、この宗教改革で聖書をラテン語から「土着語」へ翻訳し、中世ヨーロッパ社会の体制を解体し土着語の発展を招き、庶民の自信を生み出して、知識を広め、近代社会を作り上げることができたのです。

特に大切な事は「翻訳」と「土着化」であり、「翻訳」によって翻訳される言語と翻訳先の言語との間で綿密な概念の突合せが行われ、双方とも厳しい知的吟味に晒され。それが土着語の活性化し、発展させる。

2.近代日本の歩みと英語化の本音、課題

 明治維新が行われ、世界に負けない国づくりをするには外国から学ばなければならない。但し当時の日本語には高等教育のための語彙がなく、お雇い外国人による英語での教育が殆どで、その為当時の知識人は非常に英語が上手かった。確かに「茶の本」などは最初から英語で書かれています。当時も英語を公用化しようとする動きはありましたが、明治の先君達は学術用語を苦心惨憺し翻訳、作り上げてゆきました。

これにより日本語での高等教育が徐々に進み、日本語の辞書もできるなど日本語の発展と知が一般に広まってゆきました。早稲田大学の建学の理念の一つが日本語での授業を行うことでもありました。

では現在何故、英語化なのか?そこには財界中心の成長戦略があり、世界市場を取りに行く、グローバルな資本を呼び込むといった事が目的になっています。

但し自由民主義の政治の前提には、安定したネイション(国民集団)やナショナリティ(国民意識)の存在が必要であり、その為には政治が庶民の日常生活の言語で語られる必要がある。何不自由なく、生活の延長として使用できる言語に基づくナショナルな社会空間がなければ、自由も平等も、互いに助け合う福祉システムも成り立たない。

3.英語化は日本的なものを壊す

   筆者は英語化により、日本語が持ち、長年日本の中で醸成されてきた思いやりの道徳、製造業中心に培ってきたものづくりの力が弱体化される。と共に良質な中間層や小さな知識格差が壊されてゆくと警鐘を鳴らします。

確かに明治、又戦後日本の発展は先人達が築き上げてくれた知的な蓄積によるものであり、我々は安易にそれを捨て去る事は絶対にしてはならない。

そもそも筆者も言っていますが、英語の勉強をしつつ他の物も一流になるなど不可能に近い。かつ日本語で考えてもろくなレベルにもならない輩が多い中、そんな事をやっている暇はないでしょう。

日本語で考え英語で書かれた物から学ぶと言う、翻訳のプロセスこそが日本の国力を維持してゆく重要な施策です。英語支配の序列に組みこまれるのではなく、筆者が提言する、棲み分け型の多様化社会と言う物につき、我々も真剣に考え、行動する時期でしょう。